ツムツム攻略の私日記

ツムツム攻略

方向性が同じであれば、出会える人がいる

昨日、仕事が終わって、いつも通り自転車で帰っていた。

もうこの生活を続けて、9年以上になる。

誰の力も借りずに己のみの力で歩むことが自身の自立心を支える源となっているような気もする。

ただ単に、楽な道を選ぼうにも、選べるだけの経済力がないだけっていうこともできる。

まあ、何にせよ、何年も同じことを続けているだけ。

そんな当たり前の日常の中で、仕事先の若手が、自転車をこいで帰るのを観た。

同じ場所で働いていても、帰る方向が違えば、そこでしか会えないし、帰る方向が同じでも、タイミングや道順が違えば、会えない。

どこに暮らそうが、どの道を通ろうが、行き先が違えば、途中で離れてしまう。

速すぎても、ダメだし、遅すぎても、ダメ。

絶妙なタイミングで人と人が出会う。

だから、最近、余計に、自分の置かれた状況がすべて必然であり、奇跡であることに気付き始めている。

それで、一番、身近だった家族がこの世の中で縁の深い相手だったと思うと、似ている部分や全く似ていない部分、その両方が私を育てるために、なくてはならないものだったんだと思う。

よく自分の人生を劇に例えて、考えると良いと本に書いてあったけど、一人一人、台本があって、重なっている部分もあれば、重なっていない部分もある。

同じ人生なんかない。一人一人がその本の主人公で、一人一人が人生を彩る舞台役者だと思う。

面白くしたり、楽しくしたり、厳しくしたり、呪わしい言葉を使ってみたり、他人に対して悲しくなってみたり、優しくなってみたり、その全部がその人を育てるために必要なことだったんだ。

誰のせいでもない。己自身が選んできた進路なんだから、その代償は自分で取るしかない。

誰にでも陰の部分があるように、陽の部分も確かにあるってことだけは忘れてほしくない。

どんなに辛い状況になっても、どんなに苦しい状況になっても、自分が自分であることだけは変わらない。

誰かになろうとするなんてできないけど、誰かと同じようになりたいと思う自分だけは尊いことだと思う。

何かがあったから、そんな心になった。その何かは人によって違うけど、ちゃんと反応したから、そうしようって思ったんだ。だったら、今までの経験や体験は、すべて、自分を育てるためにあった試練だろう。

もっと強くなれる。もっと頑張れる。もっとやれる。

そんな心を育てるために、たくさんの失敗をした。何が良いか悪いか分からない世の中で、せめて自分だけでも、そうあってほしいと望んだ未来に、自分を運んでいくこと。

それがやがて、未来になり、現実になる。

どこに行こうとしているのか、何を求めているのか、どうなりたいのか、目に映るすべてのものがヒントなんだ。

自分自身の幅が広くなると、見えなかったものが見えるようになる。

どのレベルで話をするか。どの心で何を観るか。

その人の問題なんだ。だから、せめて、自分がどうありたかったか忘れないでほしい。

大切なことはちゃんと自分の中にあるものだから。

あるのに、忘れてしまっていること、あるのに、思い出せないこと、気付けないでいることきっとある。

あの日、自分に起こったこと、ちゃんと思い出してあげてほしい。

できなかったあの日から、できるようになっていったこときっとたくさんある。

乗り越えられなくて、苦しんで、泣いて、喚いた過去が、今日までを繋いだ。

その過去に耐えられるだけのあなたがいることだけはどうか忘れないでいてほしい。

もし、そこで、ダメになっているのなら、そこから、また始めれば良い。

できないから逃げるじゃなくて、できないところから始める。

そういうことを繰り返して行くうちにきっと自分でも気付けなかった自分が現れる。

だから、そこに行くと決めたなら、最後まで貫け。

見えなかった世界がきっと見えるようになるから。

長崎原爆ダークツーリズム〜原子爆弾殉難者之碑(家野町)

長崎大学の外柵沿いの住宅街を歩いて行くと小さな公園があります。

そこは家野公園という小さな公園で、僕が訪れた時は地元の子供達が遊んでおりました。

その片隅に「原子爆弾殉難者之碑」がひっそりと建っております。

所在地:長崎市家野町5 家野公園内

建立年月日:昭和22年8月9日

管理者:家野町自治会

碑文(裏面)

原難者 爆死 百二十二名

昭和二十二年八月九日建立

建立の経緯

家野町の世帯数は約180戸程度であったが、原爆により家屋はほとんど焼失倒壊した。

死者は大人青年子供合わせて122名で、その他多くの負傷者を出した。

この尊い犠牲者数の冥福を祈るため自治会・青年団の協力を得て公民館前に建立したものである。

毎年8月9日午前7時から自治会主催で慰霊祭を行っている。

家野町で被爆された方の貴重な証言が残っておりますのでご紹介致します。

私の被爆体験(諌早市:平成22年度「平和を考えるつどい」から)

榊 安彦さん(長崎市

私が被爆したのは、今の長崎大学―昔は軍需工場の三菱兵器製作所大橋工場―の目と鼻の先にあった家野町、これは爆心地から大体1.5?qといわれておりますが、ここの自宅の縁側にいるときに被爆しました。

被爆当時は山里小学校の2年生でした。

まず、被爆前の長崎の様子からお話いたします。

年配の方はご存じかと思いますが、昭和20年当時は男手がみんな兵隊にとられて米を作る人たちがいなくなり、若い女性もみんな軍需工場にとられてしまったということがあって、食糧不足が厳しくなりました。

それで、老人や生徒などが動員され、道路や運動場を潰して畑を作るなどのことが行われていました。

こういう状況は長崎でもありました。私どもの山里小学校では、運動場に芋畑が作られていました。

そうやって戦争による食糧不足を補っていたわけです。

食料だけでなく、生活物資も著しく不足していました。

子どもたちはみな裸足や下駄履きで、ゴム靴はクラスに2、3足しか配給されませんでした。

なぜかというと、革製品やゴム製品は軍需のほうに持っていかれてしまったために、物が足りなかったのです。生活物資や食糧が軍需のほうに持っていかれたために、このような生活を強いられていたわけです。

そういう時代の中で、原爆直前の昭和20年ごろ、米軍の艦載機が昼夜を問わずどっと押し寄せてくるようになりました。

数百機の大編隊で襲ってきて、このあたりならば大村や佐世保、長崎の市内の上空を、悠々と飛んでいくわけです。高射砲や大村にもちゃんと飛行機がいるのですが、太刀打ちができないのです。私が通っていた山里小学校のすぐ近くにも、海軍が民間人から借り上げた畑に穴を掘って、機関砲を設置しておりました。

陸軍は高射砲といっていましたが、海軍が造ったのは機関砲といって同じ物をさします。

これは学校や住民を守るためではなく、三菱兵器工場を守るために設置されたものでした。

当時は空襲警報のサイレンが鳴ると防空壕へ逃げるのが、日常茶飯事でした。

僕らが飛行機をのんびり眺めるということはあまりありませんでした。敵機が来ると防空壕に避難してしまいますから。

この暑い中でも防空頭巾をかぶって、毎日防空壕へ走って避難し、空襲警報が解除されると外に出て遊んでいました。

当日はたまたま警報が解除されていたため、外に出て遊んでいて被爆したわけです。

8月9日、私は兄と2人の友達と一緒に、自宅の縁側で遊んでいました。

私は小学2年生で、一緒にいた友達は3年生でした。

小学6年生の兄と3年生の友達の2人は、縁側で将棋をさして遊んでいました。

母は昼の準備のために、ジャガイモをむいていました。

私と友達はほとんどくっつくように並んで座って、将棋を見ていました。

そしてそのときに、バーンと来たわけです。爆発したというか、私ははっきりいって音を覚えておりません。

光がピカーッとして、一瞬で何か少し黄色くなったかな、と思ったことまでは覚えていますが、そのとたんにもう気絶していました。

気づいたときには7、8m離れたところに飛ばされていました。

時計を見ていたわけではないので時間は分かりませんが、壊れた家の下から母が脱出してきて、私を助けてくれた時間を考えると大体10分くらいたったころかと思います。

私は母に背負われ、一緒に遊んでいた友達も母が手を引いて、一緒に防空壕へ逃げました。

母も一度に2人は背負えませんので、私を背負い、友達の手を引いて逃げました。

友達はやけどだったので、出血はしていませんでした。私のほうは瓦か材木かわかりませんけれども、飛んできた何かで額をえぐられ、顔は血だらけでした。

血が出ていて大けがをしているように見えたので、母は私のほうを背負って、友達の手を引っ張って逃げたのです。

家の裏手の山を登って逃げていたのですが、彼は足の裏までやけどしていて、もう歩けなくなっていました。

それで、私の母に「おばちゃん、おいも背負うてくれんね。」とせがんだのです。

しかし、母もどうすることもできず、私の方が大けがだと思っているものですから、「もうちょっと我慢せんね。」となだめて防空壕の近くの墓まで連れていったのですが、友達は翌日亡くなってしまったそうです。

母と私は山を越えて、現在の住吉幼稚園の近くの防空壕に隠れました。

壕のなかには大やけどを負った4番目の姉が運びこまれていました。

姉は純心女学校の3年生で、学徒動員として働いていましたが、家に帰る途中、長崎大学の前辺りの路上で被爆し、全身に大やけどを負ったのでした。

私はそれを見て気持ち悪かったですよ。

自分もけがをしていたのですが、自分のことはさておき、見るに堪えない光景でした。

兄弟のなかで大けがをしていたのは、私と4番目の姉の2人でした。最終の救援列車がきたので、3番目の姉が4番目の姉を背負って、今の西浦上駅道ノ尾駅のちょうど中間くらい、赤迫電停の少し先ですね、そこに六地蔵というのがあるのですが、そこから救援列車に乗りました。

ところがその救援列車が動くどころか、逆にまた今の西浦上駅の少し南側の照円寺のところまで戻ったらしいんですね。

そのために発車が遅れて、実際に列車が出たのは午後10時すぎでした。

被爆してから時間がたっていますし、その間なにも治療を受けていないわけです。

おそらく大村の海軍病院、あるいは諫早の海軍病院などに行けば治るというつもりで行ったのでしょうけれども、喜々津駅の少し手前で列車のなかで「姉ちゃん、目の前が真っ暗になった。」とふっとつぶやいて床に倒れ落ち、4番目の姉はそのまま亡くなってしまいました。

真夜中だったために、諫早でも大村でも川棚でも遺体をおろしてもらえず、とうとう早岐まで運ばれていきました。

列車が駅に着いたのが朝の6時頃だったそうですが、そこでやっとおろしてもらい、お寺で火葬させていただいて、3番目の姉は、4番目の姉の遺骨の入った白木の箱を抱いて帰ってきたそうです。

明けて10日、私は母に付き添われて朝から救援列車に乗って、昼頃に諫早に着きました。私は汽車に乗せられたことは覚えていますが、諫早駅まで運ばれる間のことを、まったく覚えていません。

諫早駅から海軍航空隊のトラックの荷台に乗せられて、旧諫早中学校の講堂に収容されました。

中学校では、炊き出しのほんとうの米のご飯を食べさせてもらいました。

おそらく2日くらい食べていなかったはずですから、それの本当においしかったこと。

おそらく諫早の婦人会の方たちが協力してくださっていたのだと思います。講堂に収容されたのは良いのですが、もう患者が多くてたいした治療はできませんでした。

諫早中学校の不手際というわけではなくて、もうとにかくすごい数の被爆者が押し寄せてきたわけですから。

そこで母は、行方不明の父が戻ってきているかもわからない、と考えたようです。

というのも、私が10日に救援列車に乗ったのは、9日の時点でまだ父が家に戻ってきていなかったからなのです。

母は父が帰ってくるのを待っていたはずですが、一向に帰ってこないので、先に救援列車で出発した姉たちとも、ひょっとすると一緒になるかもしれん、と私を連れて行ったのでしょう。

ももしかしたら救護所に収容されているかもしれないというかすかな期待もあったようです。

ところが、3番目の姉は一人で帰ってきましたし、私のけがにしても諫早中学校には診てくれる人がいませんので、11日の朝には諫早を発ちました。

ちょうど今日のような暑い日でした。

甘えもあったのでしょうが、けがをしているので、中学校から諫早駅まで母にずっと背負われていきました。

途中何度か敵機が回ってくるたびに道端の溝に隠れたりして、やっと諫早駅にたどり着きました。

諫早駅から道ノ尾駅までの列車での記憶はとぎれていて、まったく覚えていません。

道ノ尾駅から家に帰るまでの記憶はありますので、不思議なものです。

ひょっとすると車内で昏睡していたのかもしれません。

道ノ尾駅で降りて、六地蔵のところまで母に背負われていきました。

ちょうど木陰で一休みしていると、父の昔の部下の方にばったり会いました。

父は三菱製鋼で工師という立場でして、要するに現場で一番偉い立場だったわけです。

私と母は長崎方面へ帰っていたのですが、彼らは用事か何かで滑石方面へ向かっていたところでした。

母を知っていたらしく、「実はご主人は鎮西学院の裏の芋畑で亡くなっとって、今朝埋葬されたそうですよ。」と、それを聞いたとたん、母は私を背負ったまま、立ち上がれなくなってしまいました。

放心状態だったようでした。家に帰ると、早岐から4番目の姉の遺骨が帰っていました。

ですから、母にしてみれば、私を諫早の救護所に連れていったばかりに、2人の埋葬に間に合わなかったというのが、正直なところだったのではないでしょうか。

小さい頃はそこまで思い至りませんでしたが、大きくなってから、自分のために母やまわりの人たちに色々な苦労をかけたかなあ、と思うこともありました。

今までお話してきたように、国が戦争状態にあると日常生活はまともに送れなくなります。

戦争がなければそれがすなわち平和かといえば、そうでもないのでしょうが、もし、戦争そして原爆がなければ、私を含め被爆者の人生は大きく変わっていたでしょう。

被爆から半年後の昭和21年の2月、米軍の調査団が撮影した私の写真があります。

顔半分しか写っていないのですが、顔の左半分がやけどをしているので、左側から撮られたのですね。

額のけがももうふさがった状態になっています。

若いときは、その傷跡が見られるのが嫌で、いつも帽子を目深にかぶっていました。

自分で自分の顔を見るのが嫌で、今のような時代ならば自殺を考えていたかもしれません。

しかし、さっきも言ったように、母が戦後一生懸命になって私たちきょうだいを育ててくれましたので、そんなことはできませんでした。

そして、今みなさんの前に立って自分の体験をお話する機会を得たわけですから、人間は「我慢」ではなくて「耐える」ということも必要なのではないかという気がします。

ですから、「長崎でこんなことがあったんだ」ということを、ぜひ何らかの形でみなさんにも語り継いでいっていただければ幸いです。

以上

何とも言葉がでません・・・。

訪問時期

2016年GW

これから私達のチームに来て下さる『エアガン未所持』な方々へ(ゲームレポートではありません。)

少し前に他チームからのゲストさんに「こちらのチームはG-36を使っている人多いんですね。」と言われました。その日はG-36を使っているメンバーは2名しかいなかったのですが、たまたま彼等とその2名が鉢合わせになる事が多かったのでそんなイメージがあったんだと思います。「G-36が多いのには何か理由があるんですか?」と聞かれ、冷静に考えると我々は他チームと火器形体がそんなに違うのかなぁと考える良い機会になりました。

今回はこれから我々のチームに入る事をご検討下さっている方々に、私達のチームで比較的メジャーな従来型電動ガンのいくつかの機種について紹介がてらに簡単な考察を書いてみようと思います。ちょっと説明しておくと、私達のチームでは別にドレスコードや火器コードはありません。参加者は基本的にはルールやレギュに抵触しない限り、好きな物を使ってもらっています。これはあくまで、これから私達のゲームにご参加下さる方々が、銃を買う人がどれを買うか悩んでおられる場合のひとつの目安になればと思って書いています。後日、チームのメンバーの意見も取り入れて修正版を書いてみたいと思います。

私達のチームのメンバーの大半は従来型電動ガンを使っています。所持してない者はほぼいません。私達は野外でのフルオート射撃が出来るゲームがメインですので「フルオートで撃つのに向いている。」「季節・天候・気温に左右され難い。」「埃や塵の中で壊れ難い。」これらの条件に見合う銃器となると、従来型電動ガンは外せません。初心者でも安定した火力を維持出来ます。取り合えず、現在一番スタンダードと言われているマルイ製の物を中心に書いてみます。

〈M-4系〉

現在、私達のチームでは一番使用者が多い銃がM-4系です。M-4系(M-16系)はいくつかのメリットがあります。

・沢山のメーカーから沢山の製品やパーツが出ているので本体選びやカスタムの自由度が高い。

・米軍を始め、実物の使用例が多いのでマガジンポーチ等装備探しに困らない。

・レールスペースを取り易く、様々な光学機器やサイレンサー等のアクセサリーも豊富に流通している。

・元々がアジア人が使う事を想定したフレームデザインなので、我々が使うのにサイズ的に困らない。

勿論、デメリットがない訳ではありません。

・本体が薄型な為、転倒に弱い。

・沢山のメーカーから製品やパーツが出ているので、組み合わせを間違えると作動に問題が生じる場合が多々ある。

本体の長さが選べ、直銃床でバランスが良く取り廻しが容易です。マガジンチェンジは極めて楽で、馴れればマガジンチェンジ中の隙は数秒に押さえられます。パーツが豊富なので、色々なカスタムのベースに向いているようです。

〈AK-47〉

現在、私達のチームでは二番目に使用者が多い銃です。AK系のメリットをまず上げてみます。。

・いくつかのメーカーから製品やパーツが出ているので本体選びに困らない。

・設計が丈夫で、プラフレームでもある程度の強度が期待出来る。

・元々戦車兵が使う事を想定したデザインなので、バレル長に対して全長がコンパクトに仕上がっている。

・曲銃床なので小さく構え易い。

・マガジンのサイズが大きいので、多弾数マガジンだと携行弾数を増やし易い。

勿論、AK系もデメリットはあります。

・光学機器を載せるのには本体の形状が向いていない。

・30Rサイズのマガジンは、マガジンポーチのタイプが限られる。

・マルイ純正のマガジンはハイサイクルには向かない。

・マガジンが大きくキャッチはレバータイプなので、マガジンチェンジの隙が大きい。

ただ撃つだけなら極めて扱い易い銃です。そんなにお金をかけずに一線級の火器に仕上げ易いという声が多く、色々な改造のベースにするよりベーシックな使い方をするメンバーが多いです。雑に扱っても期待に応えてくれるという声も大きいです。

〈G-3系〉

比較的使用者が多い銃です。G-3系にもいくつかのメリットがあります。

・.308サイズなので、ゆったり構え易い。

・西側標準サイズのマガジンなので、マガジンポーチ探しに困らない。

・比較的かさばらないマガジンなのに多弾数マガジンだと沢山弾を携行出来る。

・構造が単純なので、初心者がメンテナンス等を覚えるのに無理がない。

そしてG-3系にもデメリットはあります。

・本物がプレス多用のデザインなので、殆どのメーカーのプラフレームは剛性に難がある。

・マルイの多弾数マガジンの蓋が勝手に開き易い。

・グリップの角度に難があり、ハイサイクル等のカスタムをするにはモーター位置に若干問題がある。

・マガジンキャッチボタンが使い難く、レバーを使うとマガジンチェンジに隙が出来易い。

・コンパクトに構え難く、背の低い人には若干使い難い。

ストックがしっかりしたバリエーションが多く、馴れれば使い易い銃です。私達はM-4系とAK系の中間機種的な扱いをしています。カスタムの手間や金額も中間とお考え下さい。

〈M-14系〉

実はチームでは初心者にはあまり薦めてはいません。M-14系は初心者にはメリットが解り難いという声もありますが、意外に使用者は少なくありません。

・現在発売されている電動ガンの中で、マルイM-14系は最高の命中性である。

・基本的には静穏性に優れている。

・.308サイズなので、ゆったり構え易い。

・西側標準サイズのマガジンなので、マガジンポーチ探しに困らない。

・比較的かさばらないマガジンなのに多弾数マガジンだと沢山弾を携行出来る。

デメリットは多々あります。

・パーツの種類は少ないのに互換性も少ない。

・グリップの側が薄型な為、転倒に弱い。

・グリップの角度に難があり、メカボックスも無理に小さくしているので、ハイサイクル等のカスタムには向かない。

・マガジンチェンジに隙が出来易い。

・フロントが重く、背の低い人には若干使い難い。

じっくり構えて正確な射撃を行うには良い銃です。ここに上げた中で、唯一ピストルグリップではありません。伏せ撃ち等し易い銃です。

〈G-36〉

主力メンバーには使用者が多い銃です。当然いくつかのメリットがあります。

・基本設計にゆとりがあるのでカスタムの自由度が高い。

・基本設計がしっかりしているのでプラフレームでも剛性が高い。

・レールスペースが長く取り易いので、様々な光学機器が使える。

ユニバーサルデザインで扱い易い。

勿論、デメリットがない訳ではありません。

・多弾数マガジンが他のモデルに比べ、若干振動に弱い。

・マガジンが大きく、マガジンポーチ選びに苦労する。

人間工学を良く考えたデザインなので取り扱いは極めて楽です。マガジンチェンジはレバータイプなのに右手人差し指でも解除出来なくもないので、マガジン連結クリップを上手く使えばG-3系やAK系よりマガジンチェンジ中の隙を少なく出来ます。軽くて折り畳むとバイク等でも荷物が楽です。

89式

意外に89式の使用者も沢山います。マルイ製に限って言えば、比較的初心者が扱い易いようです。メリットから上げていきます。

・M-4サイズのマガジンなので、マガジンポーチ探しに困らない。

・マルイ製だと、従来型電動ガンの中ではM-14系に次ぐ命中性を誇る。

・本体とメカボックスの剛性が高い。

・トリガーの切れが良い。

・基本的には静穏性に優れている。

・元々日本人が使う事を想定したデザインなので、我々が使うのにサイズ的に困らない。

勿論、デメリットがない訳ではありません。

・分解/組み立てが他の銃より面倒でメンテナンスが手間。

・マルイ以外から製品やパーツがあまり出ていないので、カスタムには苦労が伴う。

・マルイ製は部品の取り寄せに難あり。

・折角セミオートや3点射が使えるのに、セレクターが使い難い。

マルイ製はノーマルのままでも十分に戦力になると言う声が世間にはありますが、この89式に限っては間違いないように思います。M-4系と同じタイプのマガジンキャッチなので、マガジンはチェンジ中の隙が少ないです。

これ以外にもP-90やAUG等の従来型電動ガンの使用者はいますが、我々のチームでは少数派です。誰も使ってない銃がいけない訳ではありませんが、多数の使用者がいる物はトラブル回避のノウハウもありますし、故障等の事態でも誰かが予備パーツを持っていたりピンチの時にマガジンの貸し借りも出来ますので初心者には良いかと思います。ルールやレギュに抵触しなければ何を使ってもらっても構いませんので少数派な火器が悪いという訳ではありません。それに次世代電動ガンや手動コッキング式、ガスブローバック等も使用している者もいます。また従来型ではあってもトレポン等例外的な銃器を使っている者もいます。今回はそれらを網羅すると文字数が収まり着かなくなるので触れるのは避けました。

ここに上げた考察は、あくまで私達のルールで私達のフィールドで使う場合の話です。ルールやフィールドが変われば、銃の向き不向きもまた変わります。

『格好いい』『使い易い』『高性能』『壊れ難い』『整備性に優れている』『パーツの供給が安定している』等が火器選定の規準となると思うのですが、これら全てを満たす銃を探すのはなかなか難しいです。それに良い銃を選べば結果が約束されている訳ではありません。

大切なのは、貴方が如何にこの遊びに取り組み如何に楽しむかです。

この日記はあくまで目安とお考え下さい。